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シリーズ 〔 1 〕
今城塚古墳 ・ 安満宮山古墳
高槻市は、東経135度の子午線が通る明石市の東北約 57キロ、羽曳野市の応神天皇陵(誉田山古墳) から真北 30 キロ地点に位置します。 ここには、応神天皇五世の曾孫と伝えられる継体天皇の真の陵とさ れる 今城塚古墳 (墳丘長181m ・6世紀前半)、があります。 昨年4月には、いましろ大王の杜公園として整備され、「高槻市立今城塚古代歴史館」 も開館、連日にぎわ っています。 近くの茨木市太田には、もう一つの継体天皇陵古墳 (太田茶臼山古墳・墳丘長226m) があり ますが、 2002年、宮内庁の発掘調査の結果、前方部から 5世紀代の円筒埴輪が出土し、今城塚古墳より 約一世紀 古いことが分かっています。 今一つ、高槻を有名にした古墳に、安満宮山古墳 が挙げられます。 その南西 1.2キロ の八丁畷町には 弥生時代前期 (BC.3C〜) から中世へかけての複合集落遺跡、 大阪府の代表的環濠集落 ・ 安満遺跡が あり国史跡に指定されています。安満宮山古墳は、それらの集落や淀川を見渡す、安満山中腹に築かれて います。 淀川の交通権や、この地を支配した王が葬られたものと思われます。 また、 「魏志倭人伝」 に書かれた、 倭国女王 ・ 卑弥呼との親密な関係を窺わせる同時代の銅鏡5面が、遺体頭部に埋葬されていました。包装 された布状繊維も残っていました。 「倭人伝」 には、 皇帝の詔書として 『 銅鏡百枚 ・ 皆装封付難升米 ・ 牛利 悉可以示汝国中人 』『 故鄭重賜汝好物也 』 の文字が見え邪馬台国の中枢部から同盟国への告 示として配布された状況が推察されます。 原稿提供者 ナルク 古墳・遺跡研究会 多田 宏澄 |
武具、武器は180点以上と数えられます。 堂山古墳の246点に比して少な いものの軍事的色彩の強い被葬者像が伺えます。特に弓は2m の長さがあり 黒漆塗り、樺巻の豪華なものです。また首飾り、 櫛など身の回り品の数の 多さも目立ちます。 以上からこの時代の三島にも河内と共通した軍事力の 充実が見られます。 東アジアにおける国際情勢が背景にあったのかも知 れません。 |
土保山古墳は、 そのような歴史の証言として重要な文化財 であったと思われるのですが、 消滅してしまったことが残念 です。 これからは、文化財保存と開発を両立させる方向に 進んでほしいものです。 なお堂山古墳群には、JR野崎駅から 大東市立歴史民俗資 料館を経由して約30分かかります。 以上 <参考資料> ● 「三島古墳群の成立」高槻市立しろあと歴史資料館ほか |
原稿提供者
ナルク 古墳・遺跡研究会 多田 宏澄
シリーズ 〔 4 〕
中垣内遺跡 ・ 安満遺跡 ・ 天神山遺跡
( その 一 ) 中垣内遺跡 |
( その 二 ) 安満遺跡 |
安満遺跡は大阪府の北東部に位置し、北はポンポン山(678m) など北摂の山々を背景とし、南は淀川を 望む水陸交通の要衝にあります。東を流れる檜尾川の右岸の沖積平野に発達し弥生時代前期から中世に かけて続いた集落跡です。 規模は東西約1.5km、南北約0.5km。(内東西0.6km、南北0.1km、6.4ヘクタ ールが平成 5年国史跡指定)標高約8〜12m。安満のムラは前期から中期のころ大洪水に遭ったようで近在 の高い場所、天神山に分村を作り人が移住しています。このことは前回に見た河内湖岸の中垣内遺跡とよく 似ています。 安満遺跡は、1928年(昭和3年) 京大農学部農場建設の際、方形周溝墓・溝・弥生土器などが出土し発 見されました。1932年には、安満B類土器と北九州の土器の共通性が解明 (小林行雄) され文化の流れや 遺跡の重要性が解るようになりました。その後 周辺での宅地開発が続くなかで数多く遺跡の範囲確定調査 が行われてきました。 今回は、平成20年度から22年度に至る3か年計画で実施された確認調査によってわ かったことについて見てみます。 〔T〕 遺跡全域が五つの用途地域に分かれています。 1) 現在農場事務所のある標高の高い中央地区 は居住地区 2) その東部で現在梨栽培場は谷地形で水流もあった。 3) さらに東端は墓地 4) 中央地 区の南側は環濠が巡りその外に水田地域 5) 居住地区の西地域一帯は低湿な葭原。 その様子を復元して想像図をロケで写真を作ってみました。 上段 復元想像図・イメージ 下段 現在 |
〔U〕 出土状況 20年度調査 事務所北東側の発掘で3本の溝の中、溝1から前期の壺2点、漆塗りの縦櫛(S43年に次いで 2例目)や板状の未成品の農具。 中期のものとしては二上山サヌカイト製の石の鏃や錐、 阿波産の玉鋸が |
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みつかりました。 ここは居住区の中心部で高貴な人物がいたこと、 広い地域 と頻繁な交流があったことから他地域の枢要な拠点集落であったことが窺がえ ます。 21年度調査 20年度の溝1から前期の壺・鉢や又鍬・手斧が、西側の溝状 遺跡からイノシシとみられる骨が出土しました。事務所南側でも居住区にとも なう土器、石器や前期・中期の壺、甕が出土しています。東地区の調査では 方形周溝墓2基、中期の甕、河川跡、イネのプラントオパールが、西地区の調 査では大溝と前期の井堰、南西隅では葭などが茂る沼地状であることがわか りました。中期の環濠もみつかり居住の拡大がみられました。 |
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22年度調査 南ではさらに溝がみつかり4条以上になりました。農場東側では自然流路や谷地形と墓域の 西端が確認されました。 西地区の調査では遺構・遺物は特になく低湿地とわかりました。 イネのプラントオ パールの分布から居住域の西・南・東の周縁部を取り巻く環濠に沿うように水田が営まれていました。 南西 部では、葭の珪酸体が多数検出されています。 |
以上の調査から安満遺跡は、全域についての構造が判明した全国でも貴重な弥生時代の遺跡であると思 われます。 今後の保存活用については、現在 「(仮称) 安満遺跡公園」 として構想策定が進められていま すが当時の景観をできるだけ保存した形での再現を期待したいものです。 以上 <参考資料> 平成20年度〜22年度 安満遺跡確認調査速報 ● 高槻市文化財調査報告書 第10冊 安満遺跡発掘調査報告書 1977 ● 高槻市史 第1巻 ● 他 <交 通> 阪急高槻市駅から高架沿いに東へ徒歩 0.7km(事務所南入口) 又は JR高槻駅からは徒歩 1km。 原稿提供者 ナルク古墳・遺跡研究会 多田 宏澄 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 |
( その 三 ) 天神山遺跡 |
天神山遺跡は、高槻市天神町 1〜2丁目・古曾部 1丁目に所在し現在は周辺一帯住宅街となっています。 遺跡の大きさは東西約 0.4km、南北約 0.5km に達します。 標高 20〜50m の丘陵を馬蹄形に取り囲むように、 集落が営まれていた。 東南約 1.5km の低地には、弥生時代 前 ・中 ・後期の全期間を通じて存続した安満 遺跡が望まれます。 天神山遺跡は、弥生時代中期の全期間のみで末期ごろから集落は低地の真上、富田 や高地性 の古曾部、 塚原、郡家などに分かれて出現するようになります。理由としては人口が自然増加したことで農耕に適した土 地が足りなくなったこと、また農業技術が発達し土地占有権などが確立していったことなどが考えられます。 |
<参考資料> ● 「高槻の弥生文化」 西谷 正 (高槻市教育委員会刊) ● 「高槻市天神山・弥生時代遺跡発掘報告書」 藤沢長治 (高槻市教育委員会刊) ● 「高槻市史 第1巻 本編 1、同 6巻 考古編」 ● 他 |
シリーズ 〔 5 〕
弁天山 C1号墳
弁天山 C1号墳 |
弁天山C1号墳は現在の南平台5丁目、南平台中央公園に所在していましたが、丸紅の住宅地開発に伴っ て消滅しました。 発掘調査は昭和38年7月から10月にかけて実施され三角縁神獣鏡はじめ4面の鏡を出 土しています。 C1号墳は郡家、奈佐原、岡本、服部の地域にある弁天山古墳群のほぼ中央に位置します。 |
古墳群は南北約 1.4km、東西約 0.6kmの範囲に名神高速の岡本山古 墳から北へ奈佐原台地上に連なっています。 4群15基からなっています。 奈佐原台地北端の平安女学院の東崖上から見下ろすと、芥川、西之川原、 宮之川原、大蔵司などの集落と広大な三島平野が一望のもとに広がって素 晴らしい景観です。古墳の被葬者たちが代々治めていた地域なのでしょう。 |
古墳群の築造時期は南端のA (岡本山) 群からC (弁天山C)- B (弁天山 古墳)-D(墓谷)の順に3世紀後半〜5世紀後半にかけて順次形成され、C1号 墳は310年頃と推定(岸本直文)されています。 古墳群の盟主墳として岡本山 古墳 (全長120m)、弁天山古墳 (100m)、弁天山C1号墳(73m)の三基の大型 の前方後円墳があげられます。三島平野における三代にわたる支配者の系譜が わかる貴重な古墳です。前二者は消滅を免れ、未調査で今後の調査が待たれます。年代は岡本山 西暦 260年 弁天山200年代後半 頃 (岸本)と推定されています。 |
邪馬台国の卑弥呼(248年頃以死す)の墓と推定される大和の箸墓の設計 図と岡本山古墳の測量図と重ねると比例の関係にあることが岸本さんによって 指摘されています。弁天山古墳、C1号墳、についても岡本山古墳と同様箸墓 の埋葬部の後円部の規格をまねる努力をしていると指摘しています。 このこと から当時の三島 と大和の関係が友好的、密着的であり三島の地が大和にとっ て非常に重要な拠点であったことがわかります。 |
C1号墳 の主たる出土品 三角縁三神三獣鏡、 斜縁吾作銘二神二獣鏡、 平縁四獣鏡、 捩紋鏡 碧玉製石釧 ・ 車輪石 ・ 勾玉 ・ 管玉 ・ 筒形石製品 ・ 銅鏃 ・ 鉄鏃 ・ 工具 ・ 鉄刀 ・ 壺 ・ 甕、 など 墳丘には芥川の石を葺石に、 円筒埴輪300本以上 |
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< 参考資料 > 平成18年 秋季特別展 弁天山古墳群 「弁天山 C1号墳」 原口正二、 西谷 正 高槻市教育委員会 三島古墳群の成立 「三島の前方後円墳」 岸本直文 高槻市立しろあと歴史館 ※ 画像は、「三島古墳群の成立」 より 抜粋 ※ 「陵墓から見た日本史」1995年 青木書店(p59) 岸本直文より 作成 < 交 通 > 南平台バス停 スグ北 公園入り口に看板あり。 古墳削平前は約10m 高い位置にある。 JR高槻駅から 西約3km 原稿提供者 ナルク古墳・遺跡研究会 多田 宏澄 |
シリーズ 〔 6 〕
昼神車塚古墳
昼神車塚古墳 |
昼神車塚古墳は高槻市の中心部 JR 高槻駅の ほぼ真北 500mの近くに位置します。そのすぐ北の上宮 天満宮の管理下にあり、 有名な天神山銅鐸の出土地も近くにあります。 東 1.2 km には弥生中期の安満 遺跡、同遺跡北北東 1 km には 古墳時代前期の 安満宮山古墳が市街を見下ろす高地に 立地しています。 現在、交通量の多い道路が古墳の前方部の直下をトンネルで貫通していますので人に気づかれにくい古 墳です。 前方部(道路側) を北に向けて、 墳丘は 3段に作られ、全長 56m、後円部径 30m、前方部幅 33m を測ります。 墳丘東側にテラス、 西側に堀があります。 前方部正面 2段目に内外 2列 の埴輪列が 検出されました。 築造は、6世紀 前半〜中頃。 この古墳の特徴は、狩猟埴輪群が前方部二段目テラスで見つかったことです。 今でも 階段を上がって前 方部の前に立つと、 防護棚越しに 9 体 の埴輪が並んでいる姿が見られます。 正面左(東)から 外側に左手を上げた力士 (前方部向き)−左手を右下に下げ た人 (前方部向き)−巫女か狩人 (右、西向き) −、 内側 (墳丘側) に犬 (西 向き) - 円筒埴輪 - 猪 (西向き) - 犬 (東向き) - 猪 (西向き) - 犬 ( 西向き) が置かれています。 ほかに四肢のみ、足のみの動物破片が 3 つあったと調査 概要に記されています。 以上から 1 頭の 猪を 2 頭の犬が前後から追い込んでいる狩りの様子がよくわか |
ります。 今あるのは レプリカ で今城塚古代歴史館に 本物はあります。 ☆ 昼神車塚古墳の今後 ひる 昼神車塚古墳の北の天神山( 営まれていた所で、 当古墳の墳丘下でも弥生中期の方形周溝墓、 前方 部東角裾では 土坑墓が検出されて、 上記の天神山遺跡との関係も今後 の検討課題です。 又、当古墳の北には宿弥塚古墳(上宮天満宮境内)、中将塚古墳 (50m の前方後円墳)、伊勢寺古墳 (彷製三神三獣鏡出土) があり、当 古墳被 葬者の系譜を探る課題も残されています。 参考資料 : 昼神車塚古墳発掘調査概要 高槻市立服部図書館蔵 摂津三島の遺宝 高槻しろあと歴史館 < 交通 > J R 高槻駅北側、 西武の西側歩道を真っすぐ北へ徒歩で約15分、上宮天満宮の右(東) すぐ、 トンネルの右上にあります。 (階段を上ると正面に説明版あり) 原稿提供者 ナルク古墳・遺跡研究会 多田 宏澄 |