西国街道
(西日本への交通の要路)


     
「従是東」山城の国、西国街道(山崎の関) 都を出入りする人は、ここに差しかかると感慨ひとしお。      高槻の交通幹線 いま・むかし



 西国街道がいつ頃、どのような歴史的背景のもとに作られたのかは定かではないが、和銅4年(711)、平城遷都にともなって平城京
から西国へ向かう街道に設けられた都亭駅によって推定されるルートのうち、淀川右岸の部分がのちの西国街道の前進にあたるもの
と考えられ、奈良時代初期には公式に利用されるようになったことが記録の上で知られる。

  都が長岡京からさらには平安京へと移ると、このルートは大路山陽道として重要性を増し、幅18メートルの小石だたみの直線道路が
整備された。当時この道路を往来した人の多くは都と西国を結ぶ公用をおびた人達で、彼等にとって高槻は単なる通過地にすぎなか
ったが、一方では都に近い近郊地としての性格を持つことにもなった。


 都へと向かう大名行列の描かれた 「さし絵」


 本山寺や神峯山寺、金竜寺や安岡寺といった寺院が数多くつくられ、神奈備(かんなび)の森(神内)や磐手の森、芥川やら玉川 の
里など、王朝貴族の和歌に詠みこまれた歌枕の地が生まれて伊勢姫が草庵をいとなみ、能因法師がその旧跡を慕って古曽部に移り
住んだのはそのあらわれである。

 天慶10年(945)と寛弘9年(1012)の2回、「郷々上下貴財」の群衆が流行神(しだらがみ)の御輿をかかげて河辺郡(現在の川西市)
から豊島郡(現在の豊能郡)島下、島上両郡(現在の茨木・高槻両市)を通って都へむかって歌い踊りながら日夜行進したのは西国街
道であった。それは古代荘園制の開幕をつげるものであった。律令制がゆるみ、荘園や国勘領がひろがっていくようになると、中央権
力による山陽道の維持機能が弱くなり、直線的な道路もいつしか現在のようにまがりくねった西国街道になっていった。         

 鎌倉時代には、真上氏や芥河氏といった武士が沿道に勢力をふるい、南北朝時代には軍兵騎馬の往来が激しくなった。室町時代か
ら戦国時代にかけて、芥川は政治・軍事上の拠点として重要性を増し、芥川城が整備拡大されるとともに、芥川宿はその城下町として
賑わった。西国街道が芥川宿で鍵形に屈曲するようになったのは、この芥川城整備にともなうものであったと推定される。        

 近世に入ると政治の中心は高槻城に移り、西国街道と高槻城下を結ぶ八町松原の並木道が整備される一方、芥川は本陣を有する
宿場町へと変化した。 この頃には一般庶民の往来もまた盛んになり、郡家新町や氷室町、宮田町などで街道沿いの路村が形成され
る、道路の分岐点には数多くの道標が立てられていった。その中でも注目されるのは芥川橋の東詰に残されている金毘羅灯籠で、江
戸末期の道標灯籠として民間交通史上大きな意義を持っている。                                          

 明治9年(1876)、東海道本線の前進が開通すると西国街道の重要性は低下していったが、それでもなお明治期には大阪府の手で
道標の整備が進められたことに示されるようにこの地方唯一の国道として通行人が多かった。大正6年と7年には高槻最初の近代工
場である日本絹紡と湯浅蓄電池とが相次いで西国街道沿いに設立され、同14年には現在の高槻市営バスの源流となった日の出バ
スが走りはじめた。

 しかし、昭和3年、天六〜高槻間、翌4年に高槻〜京都間に新京阪電車(現阪急)が開通し、同12年に国道171号線の前進である
産業道路が松原まで開通。第二次大戦後これが京都まで延長されるに及んで、千年以上にわたって山陽道・西国街道が担ってきた
隔地間交通の機能は、新しく整備された近代的な道路に肩代わりされ、西国街道自体はローカルな生活道路に変貌していった。  

 京を出て西へ歩むと、芥川・梶原の一里塚、これらはいつしか消滅してしまった。只、南東側の塚は一部が残り何代目かのエノキが
残って小祠が奉られており、府の史跡に指定されている。                                              

芥川宿を後に西へ  ・・・・次は、茨木の「郡山の宿」。 ここは、 歴史に 

知られた椿の本陣があった。門内に椿の古木があったところから風雅な呼び名がついたと伝えられている。                

西国の諸大名が宿泊して今もその記録が延々と残っている。   西国街道です。          




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参考文献:  高槻古書より