再建 2代目石碑 (コクリート製) |
再建 3代目石碑 (現在) |
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因みに 初代碑は、銅像姿で正行の手には短刀だったそうです。 しかし、第2次世界大戦で銅製品はすべて軍に供出した。 |
♪♪ 青葉茂れる桜井の 里のあたりの夕まぐれ 木の下かげに駒とめて 世の行く末を ・・・ ♪♪
桜井駅跡は、旧 摂津国の島上郡桜井村にあった古代律令制度での宿駅の跡で1336年、足利尊氏 (1305−1358) を討つべく湊川に向かう 楠木正成 (生年不詳-1336年 ) が、嫡男の正行 ( 生年不詳-1348年 )を河内国に帰らせた、「楠 公父子訣別之所」 として知られている。桜井駅跡には、「桜井の別れ」の像がある。正式には、「桜井駅の別れ」といわ れ、(1336年) の湊川の戦い直前に、西国街道の桜井の駅で交わされたという。 楠木正成 ・正行父子の今生の別れで 「太平記」の名場面のひとつ。天皇への忠誠を伝える美談として、戦前までは国語や修身の教科書に必ず載っており 日本中の人たちが学んだ逸話だった。 足利尊氏の十万人以上の軍勢に対し、新田義貞 (1301-1338年 ) を総大将とする わずかな軍勢の朝廷方では勝て ないと見ていた正成は尊氏と和睦するか、比叡山に上り都に足利軍を誘い込んだ後兵糧攻めにするべきだと後醍醐 天皇 (1288-1339年) に進言したが説得する事ができず死を覚悟して、湊川の戦場に赴かざるを得なかったとされる。 正成は、自分の死を予測して11歳の嫡子 ・正行に対し「生き残って、いつの日か朝敵を滅ぼせ」 と諭し、後醍醐天 皇から下賜された菊水の紋が入った短刀を授け今生の別れを告げ故郷の河内へ帰したとされている。 正行きは成長 して (1348年) 四条畷の戦いで足利尊氏の腹心 ・高師直「こうのもろなお」(生年不詳-1351年) と戦ったが楠木軍は、足利方 の圧倒的な兵力の前に敗れ、正行は弟の正時と刺し違えて自決したとされている。 「桜井の別れ」は、史実 として異 論もあるが、帝国思想を国民に徹底教育した。 明治時代から第2次世界大戦に敗れるまで代表的な尊王教育の教材 のひとつだった。 2008年、島本駅が開業し、桜井駅跡も公園として整備されている。 桜井駅跡には、陸軍大将 乃木希典 (1849-19 12年) 筆 「楠公父子訣別之所」 の碑、 海軍大将 ・元帥東郷平八郎 (1848−1934年) 筆 「子わかれの 松のしづくに 袖ぬれて 昔をしのぶさくらいのさと」(明治天皇御製)の碑、(1876年) に駐日イギリス大使 ハリ−・パ−クス (1828−18 85年) が楠木正成の忠誠心に感じたとして、表に 「楠公訣児之所」 と刻し、裏に英文で碑に建立理由を記した碑など がある。 ハリ−・パ−クスは、1865年から1883年まで18年間日本に駐留し香港など英国のアジア進出に能力を発揮 した外交官だが「楠公訣児之所」碑建立は日本の帝国思想に賛同し日本人に英国に対する心証を良くしようとする思 惑もあったようだ。 桜井駅跡は、明治時代から第2次世界大戦まで聖地の様であったが、現在は 子供たちの遊び場になっている。 資料: 高槻・島本古書から 抜粋 |